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正解はだれが決めるのか、正解は一つだけか。今、基準自体が問われている

どこかのCMではないけれども、ほんとうに欲しいものはプライスレスなのかもしれない。というよりも、プライスという一基準で単純に判断していいのかが問われているともいえる。

なぜ今、判断の基準が揺らぐのか。

これまではそこまでシビアに考えなくても、それなりに流れに身を任せる中で、ある程度の要望は満たすことができたのかもしれない。しかし、なんとなく満たされた気になって過ごしてきて、ふと振り返ると、そこに違和感、ズレを感じることに気づいてきた。

20世紀はマスの時代で、みんなの嗜好と自分の嗜好はある程度連動して、同様に考えることができた。与えられる選択肢というものもそれほどはずれはなかったように思われる。しかし、21世紀になって、マスによる一義的基準にも陰りが見え始めた。一般的には満たされているはずなのに、なぜか満たされない。なんとなく空虚さを感じるといった事態だ。

正解が一つの時には、悩む必要はなかった。それを選べば間違いないのだから。しかし正解が一つとは限らないとなると話は大きく変わってくる。正解を間違いなく選ぶのが大事なのではなく、何を正解とするのか、そのものが問われることになる。

正解と言うと語弊があるかもしれない。自分にとってのこれと言える、こだわりのようなものだ。〇か✕かどちらかを選べという話と、何を〇とみなすか、その条件を見定めるという違いかもしれない。

これはチャンスであり、またリスクでもある。自らそれを構築するという裁量が与えられている反面、どうすればいいかというガイドラインは存在しない。マス目があればそれに従って埋めればいいが、まったくの無地では暗中模索にもなりうる。

基準が外から与えられるものと、基準から自己設定していく場合では、話が全く異なる。たとえば価格は強烈なインディケーターだが、その存在がかえって本質を見えなくする場合もある。

そもそも、基準が変わりうるという状況では、これまでのあたり前、当然という発想は機能しない。いやむしろ、それが足かせにすらなるだろう。この基準を捉え損なえば、まったく見当はずれなアプローチを行うことになってしまう。それくらい大事な基準なのに、これまであまりに無配慮であったと、まずは自省することからが出発点だ。

大切なものの価値は必ずしも値段と連動していないのです。そしてそれは他と比べてベターというだけでは不十分です。それに恋に落ち、愛さずにいられない。絶対にこれでなければならないもの。最後に残しておきたい1つというのはそういうものです。
開発しようとしている製品やサービスの方向を見出し、価値創出に臨もうとするとき、評価のものさしとして重要なことは、それがベターなものではなく、意味があるかどうかということです。

情報源: ユーザーを虜にする「意味のイノベーション」 [ロベルト・ベルガンティ] | ISSUES | WORKSIGHT