something eureka

思索のヒント、ブックレビューなどを中心に

落としどころを求めすぎてかえって見失うという矛盾

「ストーリー」があると言えば、整った帰結で、起承転結をはじめとする筋書きがあり、全体としての一貫性がある、といったイメージを思い浮かべるだろう。

では、論旨を伝えるためのあらゆる形式がストーリーと捉えられるのか。また、ストーリーを外れたとしたならば、それは失敗なのか。これらは思索のパターン化としては有効ではあるものの、いやだからこそ、あらかじめ想定しうる着地点ありきという条件内に限った話といえる。

つまり、一般的にストーリーといった場合、途中に断絶、不連続があることは許容できない。それでは筋がこと切れてしまう。だから、無理にでもつじつまを合わせようとする。最終的に一意に収斂しないならば、それは問題外だ。

もう少し柔軟にストーリーをとらえてみれば、大きく2つに分類できるだろう。それは剛なストーリーと柔なストーリーである。落としどころがあらかじめ決まっているものと、そうでないものとの違いと言い換えてもいいだろう。なぜ、過去の意思決定がなかなか覆せないのかと言えば、前者の強固な筋書きが変えることに抵抗するからだ。つまり、前者のストーリーは、結果を出すための効率的なショートカットとしての位置づけになっている。

では後者の場合は、どのような位置づけになるのか。柔なストーリーとは、結果を追い求めるのではなく、意外性を楽しむことができるかどうがが分かれ目となるだろう。想定外を許容し、ある意味で、ままならないがゆえにストーリーを膨らませることになるのだ。

このように考えれば、旧来の剛なストーリーとイノベーションが水と油なのは一目瞭然だろう。残念なことに、こうした事態にもかからわらず、剛なストーリーを堅持する組織ほど、イノベーションを求めたがるという矛盾がある。もっと言えば、イノベーションを声高に欲する時点で、すでにこの不和の呪縛に囚われていることに気づかねばならない。なぜなら柔なストーリーの組織には、イノベーションなどあえて求める必要などないのだから。