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自己認識の難しさはどこにあるのか

「自己」や「自身」という言葉は、至極当たり前のように使われていますが、ほんとうにそうでしょうか。一般的な対象物であれば、それを「それ」として明確に指し示すことができますが、生物としての人間個体以上に、自分をつかさどるものは思いのほか自分の周囲にも滲み出ていて、それほどはっきりと境界を示すことは難しいのかもしれません。社会的であるという性質はそういうことかと思います。

マズローマズロー研究者によれば、自己実現とは、単なる自己中心ではなく、自分の欲やエゴも認めながら、他人の存在や様々な環境、想定外の出来事や変化 などを受け容れ、その関わり合いや複雑な日常の体験を通じて、自分の可能性や潜在能力を発揮していこうとする、成長過程そのものだということです。そし て、自己実現は、その変化や成長を通じて、社会性や他人の利益をも含んでいくと説明されています。
マズローは、成長欲求には、自己実現のさらに上に、「自己超越欲求(コミュニティ発展欲求ともいう)」があるとも説きました。近年のボランティア指向や「シェア」の文化には、もしかするとそれに通じるようなものが含まれているのかもしれません。
自己実現とは、成長という「過程そのもの」であり、「達成をマネジメント」することでは決して可能になりません。従来の過度な目的合理主義・目標管理主義を前提とした人材・組織マネジメントの中では、むしろこれは激しく妨害されてしまうものだと思います。

マズロー「自己実現」の誤解と「ありのまま」 “マネジメント”からの逃走 プレジデントオンライン

自己とは、他者とのつながりの網目の中に絡めとられることを常とする存在と言っていいのかもしれません。つまり、あくまで他者あっての自己なのであって、他者を無視した(考慮しない)唯一単体の自己などというものは、幻想にすぎないとも言い換えられます。

自己認識、自己把握ができていないと指摘されるケースがありますが、これは単に自分がわかっていないと片づけられない問題です。要するに他者が見えていないから、その帰結として自己が見えていないということではないでしょうか。自分のことは自分が一番わかっているとの言い回しもよく聞かれる表現ですが、これも大きな錯誤をはらんだ考え方と言っていいでしょう。

同様に敷衍して考えれば、自社のマネジメントということは内部の問題に限定できるものではないということです。外部の他者並びに環境要因とのつながり、相互関係を通してはじめて「自社」という存在が浮き彫りになってくるといえます。また、つながりというものに完成形はありません。いわば永遠に終わりなきプロセスということです。目標設定においてある時点での到達点を設定することはあるでしょうが、それはあくまでも一つの通過点に過ぎません。わかりやすさという点で理想形やベストな状況を一意に想定するかもしれませんが、そのことがかえって将来に開かれた活動という意識を摘み取ってしまうという危険性を含んでいることに留意すべきです。

終わりなきものをマネージするとなると、非常に困難な課題設定になりますが、安易な自己認識で問題を矮小化してしまうことのほうが、デメリットが大きいと認識すべきです。むしろ終わりがないプロセスだからこそ、マネージが必要なんだと解することもできます。

結果なのかプロセスなのかといった二者択一の論議もありますが、自己の成長進化という観点からすれば、両者が整合的に組み合わさって初めて実現されるものです。もちろん、結果にこだわることを軽視すべきではありません。ただ、結果偏重によってものごとの断片化が進んでしまえば、継続を旨とする成長進化のダイナミズムが欠落してしまうことに意識を向けるべきです。