レビュー 他者と働く 「わかりあえなさ」から始める組織論 を読んで
世の中の問題には、本書にあるように、「技術的問題」と、「適応課題」と、二種類ある。この部分は重要だ。たいていの人はものごとを白黒付く、正解のあるものとみなす。それは技術的問題として解けるということを含意する。
一方で、正解を一つに決められない問題というのも存在する。それが適応課題だ。ものごとには多様な解釈が存在するので、そこに関与する立場が変われば、当然「正解」も変わってくる。
つまり、唯一無二の正解が単純に導けるわけではなく、そこに関与するステークホルダーそれぞれにとっての正解がいくつも存在しうる状況だ。
むしろ世の中の成り立ちを考えれば、前者のケースのほうがまれで、後者がその中心を占めるといってもいいのかもしれない。しかし、私たちはあたかも前者ですべての問題が解けるかのように学んできたし、そうであるかのごとく振る舞いがちだ。
このギャップが社会や組織、人間関係における軋轢を生んでいる元凶といえる。
本書では、このような立場の違いを、それぞれの人が持つナラティブと捉え、ナラティブが異なる人同士がうまく意思疎通するために必要な方途を説いている。
ナラティブが異なるということは、それぞれが異なる言語を使っているのと同様で、そのままでは意思疎通は図れない。お互いを理解するためには、正解かどうかではなく、どのようなナラティブに基づいているのかに着目する必要がある。
相手のナラティブをきちんと捕まえるためには、まず、自らのナラティブという思い込みからいったん距離を置き、フラットにモノを見れるかどうかが問われる。
要するに、人間は自分のナラティブを絶対的なものだと見なし、それに基づいた正解を、普遍的な正解だと見なす傾向があるのだ。
だから、正解かどうかをいくら問うたところで、前提としている文脈が個々人それぞれ違っている以上、そこに合意を見ることはない。
合意をみるためには、どっちが正論かどうかを押し付け合っても、単に答えの出ない、平行線をたどるに過ぎない。そもそも噛みあわない舞台を土台にしているのだから…。
つまり、究極的にはわかりあえないもの同士が、努力して互いに何とか、少しでもわかりあおうとするためには、ナラティブの違いを個性同様に認め合い、そこに橋を架けることが必要になる。それこそが本書で位置づけるところの「対話」だ。
ディベートとは、お互いの議論をぶつけ合い、相手の立場に押し勝つことであるかのように見えるが、より強い主張で押し切ったとして、それは解決と呼べるのだろうか。
おそらく、その場で押し負けた側は、我慢してやむなくその結論を受け入れるかもしれないが、それは表面的なことであって、そこに本当の腹落ち感はない。納得はしていないのだ。
しかし、対話はそれとは異なるし、言い勝つことに何ら価値を見出さない。
対話である以上、相手の立場がくみ取れなければ意味がないし、同時に、相手にもこちらの立場に気づいてもらえなければ失敗だ。
つまり、対話とは、互いのナラティブへの理解であり、それは正解を求める活動ではなく、いくつもの正解と思しき断片を、一本の大きな糸に撚りまとめる作業といっていいかもしれない。
適応課題とは、このように対話を基礎とする合意形成のアプローチを必須とするものであって、技術的問題として機械的に処理するのとは、方法論を異にする。
そもそも、それが適応課題なのか、技術的問題なのかの区別がついていないと、適切なアプローチすら取れないのは当然だ。
私たちは、残念ながら、学校での学習課題をはじめといて、技術的問題としてしか現実を捉えようとしないように飼いならされてしまっている。だから適応課題が見えないし、適応課題というロジックが苦手だ。
しかし、現実の社会は多くの適応課題に囲まれているし、そもそも技術的問題で済むケースのほうがまれなのだ。適応課題から目を背けていては、問題の存在自体を捉え損なうことになる。
まずはきちんと技術的問題と適応課題の違いを理解して、そのベースに人間個々人が持つナラティブが影響していることを理解する必要がある。異なるナラティブが存在するのが大前提であって、それら同士を仲介するのが対話であり、対話を通じてしか、適応課題を解くことはできないのだ。