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レビュー:内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力 スーザン・ケイン を読んで

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個人的に自己啓発本に興味はないし、取り上げるほどの意味もないと思っている。

だから、これをそういう本として読んではいない。むしろ、私たちがあたり前のように前提としている人間像に疑問を呈する視座として理解するといいかもしれない。

 

では、あたり前というのはどんな人間像か。

戦後の日本では、アメリカ礼賛一辺倒できたこともあって、アメリカ流に評価される、主張のできる、強いリーダーシップこそがすべてといった風潮がある。

確かに、そういった押しの強い、表舞台にさっそうと登場するようなアグレッシブなスター人材は、わかりやすいし、メディア等でも取り上げられやすい。いわゆる外向的な、ポジティブ思考の人間だ。

そういった人は、成果を上げていることと結びつきやすいし、わかりやすいロールモデルとしてもてはやされる。だからみんなそういう積極的な人材を目指しましょうという話になりがちなのだろう。

 

しかし、人間がもしそういう面で優れているものだと一義に定められるなら、進化はそれをどんどん推し進めるはずだろうし、内向型は必要ないということにもなる。

にもかかわらず、内向型の人も全体の1/2~1/3はいるという事実は、人間の優劣はそう単純に測れないことを象徴していると言えないだろうか。

 

要するに、人間とは環境的生き物であるから、どんな状況においてもポジティブであればいいというわけではない。むしろ危険な状況にあっては、ネガティブに考えられる人のほうが生存確率を上げることができる。

 

つまり、外向型と内向型でいずれかが一方的に優れているというわけではなくて、状況によって外向型が活躍する場面と、内向型が活躍する場面が存在するし、それは補完的でもあるということだ。

 

それにもかかわらず、外向型=ポジティブ、内向型=ネガティブという単調なレッテルを張られ、誰しもが外向型を目指さねばならないような風潮こそが欠陥だということに気づけることが重要だ。

そう、これが誤った前提ということなのだ。

 

そうしてみると、外向型は過剰に評価されているし、内向型は過小評価されているといっていいだろう。

右肩上がりの単調な、リニアな情勢であれば、イケイケどんどんの外向型が派手に成果を上げていくのかもしれない。しかし、先行きの見通しづらい混迷の時代では、内向型が活躍する場面も増えてくるだろう。

 

人間には性格や適性といったものがあるので、無理に内向型を外向型に変えるというのには無理がある。むしろ適材適所、自分の活躍しやすい環境に自身を置いていく、見定めの眼力のほうが求められる。内向型には内向型の良さがあり、内向型でなければ対処しえない環境というものも存在する。

 

もし社会が外向型ばかりで形成されるとしたら、それは相当に脆弱な社会だ。生命は多様であることで適応進化を担保してきたし、これからもそれは変わらない。むしろ外向型オンリーで通用した時代こそ例外であって、本来は外向型と内向型がうまくバランスし、補完し合い、強調することで進化していくはずのものだ。

 

しかし、まだまだ現状は、外向型のタレントがもてはやされ、アメリカ流の自己主張の強い、プレゼンテーションが得意な、わかりやすい能動性が成果をもたらすと信じられている節がある。もちろん、そういう人が活躍しているのにはそれなりの意味があるし、その人の適正ともマッチしているのだろう。

だからと言って、誰もがそうした有名タレントの真似をすればいいということにはならない。適性のないところに無理やり接ぎ木する行為は、枯れることはあっても成長することはない。

残念ながら、そういう売り方が人材育成をはじめとして一業界を形成してきてしまったため、いまさら内向型を活かすといっても、既存勢力勢力として抵抗してくるだろう。

 

だが、そもそもの前提(人間の成長、成果は外向性如何に懸かっている)が間違っていると気づいてしまった今、これまでの愚策を漫然と繰り返すのはナンセンスだ。

内向型人間の時代などというと、時代が変わったように感じるかもしれないが、そうではない。そもそも、これまで内向型が適切に評価できていなかっただけだし、内向型も外向型も、人間の多くの性格特性の一要素、一側面でしかないのだ。

 

型にはめるという表現もあるように、とかくわれわれは、わかりやすいロジックに騙されやすい。外向型=成果というのも典型的なそのロジックの一つだ。

人間は型にはまらないものだし、型を突き抜けるところに成果が見て取れるはずなのに、成功というロールモデルがあるという錯覚に踊らされてきたことに早く気付くべきだ。

 

そういう意味で、これまでの前提を崩すもの、安易な前提をきちんと疑っていくための視座を担保するものとして、本書は役に立ちそうだ。