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レビュー ソーシャルメディアの生態系 を読んで

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私たちは西洋を起源とする人間中心の世界認識になじんでいるので、それから脱するのは非常に難しい。

社会も個々人の人間を活かす媒体としての社会であって、逆ではないと思い込んでいる。そうした思考はあまりに強固で当然視されるため、そもそもそれに疑問を持つことすらないだろう。

 

ここで取り上げられる「ソーシャルメディアの生態系」とは、そうした思考を逆転するすることを求められる。この気づきは重要だ。

 

ソーシャルメディアを使いこなすという発想では、それは対象であって、使う側が主体となる。

しかし、ソーシャル・オーガニズムを主体と位置付けるならば、それを形成するわれわれ個々人は、生命体の細胞と同等の、一要素になりうるわけだ。

 

この考え方は、「ホロン」や「ホロニック」とも言い換えられる。

より大いなる全体系に含まれるものとしてのわれわれは、要素でもあり、また自律的存在でもある。両義的存在なわけだ。

これまでの人間中心主義では、自律的存在という一面ばかりが強調されるため、大いなる全体に含まれるわれわれという視座が欠落する。

社会の多様性、多義性は、こうした要素と全体の相互作用をもって初めて規定されるものなので、一方からの見方しかしない(できない)とすれば、社会という動態を捉え損なうことにもなりかねない。

 

ソーシャルメディアというのは、もちろん情報通信技術を駆使した、現代的な技術的集積、ツールであるわけだが、ほんとうにそれが単純なツールであれば、それを使いこなすのはそれほど難しくないはずだ。もちろん個人の選好によって、使わないということも選択肢に含まれるだろう。

 

しかし、今や巨大なソーシャルメディアは、単なるツールの域を超え、ソーシャル・オーガニズムという視点で見直さざるを得ないほど、われわれ自身を規定する存在にすらなっている。

 

別段こうした事態は、目新しいわけでもない。そもそも社会というのはそういうものだ。それが物理的であろうと、情報的であろうと、社会VSわれわれではなく、社会=われわれなのだ。社会的な規定を割り引いて、われわれを規定することは叶わない。

 

そう考えたとき、ソーシャルメディア界隈の話は、技術的ソリューションの域を超え、ソーシャル・オーガニズムとして考えざるを得なくなる。

 

それを技術ではなく生命体と見なすならば、ご都合主義で、切ったはったで済ませることはできない。育てなければならないのだ。もし安易に情報の流れを遮断したりすれば、ソーシャル・オーガニズムは死滅してしまう。

 

つまり、ソーシャル・オーガニズムにとって、情報とは栄養源であって、それは不断に滞りなく流れることが期待される血液だ。また、進化によってそれは物理的にも仮想的にもひろがり続けるし、また複雑化する。伝染性もその生命力の核となる。

 

進化という観点に立てば、そこには揺り戻しや抵抗も存在する。すべてがいいことづくめなわけはない。そもそも進化には正解という方向性は存在しない。選択圧がわれわれを次のステップに導くだけだ。

 

世界が限られた、小さいうちは、それこそわれわれが世界を導くといった人間中心主義でもなんとか成立していたのかもしれない。しかし、今や世界はどんどん拡張し、国家という線引きすらも乗り越えて広がっている。もはや単純に御しうる対象ではないのだ。

 

だとすれば、ソーシャルをわれわれと同期させ、互いが成長、進化に向かう道を模索するしかあるまい。

大いなる生命体であるソーシャル・オーガニズムは、われわれ人間を要素とする意味では一心同体のものだ。ソーシャルを殺すことはわれわれを殺すことにつながる。

 

しかし、われわれはまだ、ソーシャル・オーガニズムの扱いに長けてはいない。(そもそも御しうるという発想自体が状況にそぐわないわけだが…)

だからといって、まったくの無力というわけでもないのだ。なぜなら、ソーシャルとわれわれはリンクしている。つまり、ソーシャルがわれわれに影響力を行使するのと同様に、われわれもソーシャルに何らかの影響力を行使しうる存在ということになる。

 

ただ、われわれがただやみくもに、てんでバラバラに個々人の意向のみで振る舞っていたのでは、ソーシャル・オーガニズムとの連鎖は生まれない。そこで、われわれもソーシャル・オーガニズムの一部であるという、ホロニックな視座が生きてくるのだ。

 

図らずも、ソーシャルメディアの進展とその驚異的な影響力の拡大によって、主体は個々人にのみあるものではなく、ソーシャル・オーガニズムも同様に主体たり得るし、両者は対極にあるものではなく、不可分の存在、一枚の紙の表裏であることに気づかされた。

この意味では、やっとわれわれの認識がソーシャルというステージに上がったと考えることもできるだろう。

 

ソーシャル・オーガニズムの進化がどのようなものになるのか、これは未知の領域の話ではあるが、確実に進化は進んできたし、これからも進んでいくであろうことは堅い事実だ。

 

本書は、ソーシャル・オーガニズムという生命系に模した社会認識を提起するとともに、ホロン、ホロニックな視座を提供してくれる良書といっていいだろう。少なからず現代的なテーマである、ソーシャルに関心のある人にはぜひ参考にしてもらいたい。