#REPUBLIC インターネットは民主主義に何をもたらすのか を読んで
自由と民主主義にとって、インターネットは善なのか、悪なのか?
まあ、よくある議論ではある。技術信奉派は無条件にそれを評価するだろうし、技術懐疑派はそれに待ったをかける。
一般に、インターネットは少数意見、ロングテールを拾いやすくなるといわれているが、その一方で、嗜好の最適化が自分好みのニュースしか目に触れないタイムラインをつくりだす、視野狭窄という問題点も指摘される。
個々人の趣味嗜好を尊重して、自然に任せるといえば聞こえはいいが、心地よい状況に身をゆだね、立ち止まって思考することを忌避するならば、それは進歩ではなく退歩に至るだろう。
楽をさせることや、効率を追求することは、確かに技術的な恩恵ではあるのだが、それは無条件に是とされるとは限らない。確かに機械的処理はそれを限界まで追求するのかもしれないが、人間が人間として、個だけではなく集団としても研鑽を積むという意味では、ショートカットが最適とは限らない。
最適や極限効率とはあくまで機械の考え方であって、処理されるべき面倒ごとにすぎない。一方の人間は、プロセスそのものから学ぶという点を重視するので、それは無駄ではなく、有効な機会となる。
だとすれば、それを極限までそぎ落とすとか、機械化して切り離すということは本末転倒な話になるだろう。
インターネットに代表される現代の情報技術は、その意味で、人間にとっての自由や民主主義を脅かす存在となる。
インターネットを通じて、熟慮の機会が奪われ、個々人が耳障りの良い、自分の嗜好に合致する情報ばかりを追い求めるならば、社会は分断化され、たこつぼ化していく。
単一の思考に凝り固まった人々が寄り集まり、均質化が過度に進めば、多様性の持つ頑健性、柔軟性は失われ、社会がぜい弱化する。
さらにそれが無意識のうちに刷り込まれ、自動的に社会が分断化されるとすれば、これは民主主義の危機に他ならないだろう。
ひとつの解決法として、多様な情報に意図的に触れるために、ある一つのニュースソースに対して、同時に「反対意見ボタン」や「セレンディピティボタン」を設置して、人々が能動的に情報を取捨選択する機会を設ける案が提起されているが、これは良い方法だと思う。
これまでの技術がどちらかというと、一元的な個人的嗜好に沿う論調を強化してしまうとするならば、それを意図的に阻害する、中和する、改善する方法も技術的に解決できるはずだ。
意見をシャッフルするというのは、単線志向で最短最効率を追求するのとは違うが、人間が求める思索の深さや豊かさをつくりだすには、とても有効な回り道だ。
こうして考えてくると、まだまだ情報技術は機械先行で、機械の思考にわれわれが迎合せざるを得ないような気がしている。本来はその反対のはずなのに…。
豊かさを絶対量や最効率だと誤認してしまうと、大きな過ちを犯しかねない。それはあくまで機械的な選好数値にすぎないのだから。
我々自身の豊かさは、ボタン一つで答えが出てくるマジックボックスがすべてに勝るとは限らない。あれやこれや悩みつつ、社会の他者の異質な意見に触れつつ、まさに手探りで、協働しながら紡ぎ出していくことも必要だ。また時には間違うことも認めつつ、それを修正していく、修正できるということもロバストネスとして価値がある。
便利なフィルタリング技術は、もしかすると我々から、単にいらないものを消去するのではなく、実は思索に不可欠な、立ち止まる機会をも消去してしまっていることに、思いを巡らせてみるべきかもしれない。