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ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来 ユヴァル・ノア・ハラリ を読んで

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サピエンス全史のユヴァル・ノア・ハラリの続編のようなものといっていいだろうか。

サピエンス全史がこれまでを取り上げていたのに対し、ホモ・デウスでは人間のこれからを描き出す。題名にもある「ホモ・デウス」とは何なのか。

サピエンスが賢いというのであれば、デウスは神ということだ。つまり、生物として単に賢い種から、神にもなり替わる人とはどういうことだろう。

これまでの人の歴史は、飢餓、疫病、戦争という三つの大きな生命の危機に大きく制約されてきた。その中で、いかに生命の維持を確保するのかが、人にとっての至上命題であったのだ。

しかし、それらを刻々と克服しつつある現代では、人の関心は次のステージへと移行する。それがまさに神の領域だ。

つまり、これまではわれわれに御すことのできない定めとして真摯に受け止めてきたものが、いよいよ手に届くものへと変わってきたことを意味する。

これまでは技術的手段の支援を通じて、外部から問題を解決してきたわれわれが、いよいよ人という種の生命そのもの、体の内的しくみ自体に手を加えようとしている。

いわば誰もが避けられない生命の死そのものを回避し解消する、まさに神がこれまでになってきた領域に手を付けることになる。

仮に生命が死という呪縛から逃れるすべを手に入れたなら、その欲望は次のステージに向かうだろう。

それをハラリは「不死・至福・神性」として描き出す。

これは何も新しい発想なのではなく、われわれがこの300年間追求してきた、人間至上主義の明確な帰結といっていい。

「人間を神にアップグレードする」という表現はいささか刺激的かもしれないが、どこまでそれに近づけるかどうかは別として、少なくともそうした方向にわれわれが導かれてきたことも事実である。

と同時に、ハラリはそれが歴史の必然だと述べるのではなく、未来は変わりうるということも強く意識している。

過去の延長に漫然と未来が形作られるわけではなく、新しい知識は現在のわれわれの行動を変え、その変化が当然に未来の行く末をも変容させる。つまり、歴史は一点に収斂していくのではなく、その都度、多様なオプションに開かれているのだ。

 

科学VS宗教という対立構図では、現代は科学の勝利であるかのように描かれることが多い。科学は現実であって、宗教は観念であるという線引きによって。しかし虚構がすべて劣っているとは限らず、むしろ人間は意図的に虚構を用い、それによって一定の秩序を構築していくという側面もある。その意味では現実が虚構を制するよりも、虚構が現実を飲み込んでいくこともあるのだ。

事実という妥当性と、何を選択するのかという意図は別のものであるから、科学だけでわれわれの生活が形成されるわけではない。さらに科学にもそれを無前提に正当化するならば、宗教となんら変わらない、科学教とでもいうべき信念体系を形成しうる。

だとすれば、そもそも科学or宗教という形で、いずれか一方だけを選択するという発想に無理があるのかもしれない。