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対話から構想されるもの

「対」という概念には幅がありますが、それを二者間の競合姿勢と捉えると、勝つか負けるかといった攻撃的姿勢が強調されることになります。もちろん、厳しい生存競争を勝ち抜く上でのたくましさは望ましい姿勢ですが、ゼロサムゲームがすべてとは限りません。

人間が他者と関わり合おうという原点には、そこでの交流から新たな道筋を見出すこと、単体では成しえない成果を協調的につくりだすことが含まれます。切磋琢磨とは、相互交流からウィンウィンな状況を導く、非ゼロサムなものです。

対話(ダイアローグ)とは、コミュニケーションの原型であって、他者と真摯に向き合うという姿勢を規範とするものです。その意味で、対峙や対決というポジショニングの概念に比べ、活動を通じての進化成長までをも含意する幅の広いものといえるでしょう。

「対話」は、それがプラトン哲学の方法であったことからもわかるように、語源的にも「二つのロゴス」が互いに主張を闘わせながら、それらが弁証法的に統一されて「唯一の真理」という目標へと到達するための手続きである。 他方、「会話」はラテン語の“conversari”すなわち「共に住むこと」を語源としているように、言語的実践を通じての「共生」や「交わり」を意味している。対話が「目的志向的」に究極の一致を目指す活動であるのに対し、会話はその外部に目的を持たず、会話の継続それ自体を目的とする活動である。 科学の解釈学 野家啓一

対話と会話の違いといったことに関して、厳密に意識してきませんでしたが、少なくともそれを収斂ではなく開かれたものと位置付けてきました。ゆえに上記引用に沿って読み替えるならば、後者に力点を置いた捉え方になろうかと思います。

始点か終点かという時系列を意識するならば、コミュニケーションとは始点型のアプローチの典型です。それは継続的活動であって、端的な結論抽出への一手段に貶めるとすれば、矮小化しすぎるきらいがあります。

もちろん、コミュニケーション自体を目的とするといっても、それが無味乾燥なおしゃべりに堕してしまったのでは本も子もありません。これを有意なものと判じる線引きとして、気づきを得るプロセスか否かが挙げられます。各自がコミュニケーションを通じて自省的な気づきを得、それを契機に成長が促されること、これが期待される効用です。