レビュー:多数決を疑う 社会的選択理論とは何か を読んで
わたしたちは、多数決をあたり前だと思っている。
民主主義とは、わたしたちの意思の反映であって、そのツールが多数決なのだと。
しかし、その一方で、多数決を無為だと思っているのも事実だ。
結局は、個々の意思など大して意味はないのだと。
たしかに、少数意見が反映されなかったり、いわゆる死に票となってしまえばそれもわからなくはない。
もっと悪いと、漁夫の利で、意図しない第3者が当選してしまうなどは制度の敗北だろう。
いずれにしても、よくわからないながら漫然と、多数決ありきでなんとなくそれを許容してしまっているのが実情だ。
はたして多数決に正解などあるのか?
多数決をまとめるルールにはいろいろある。本書ではそれら方法を通じて、適正な機能を発揮する方法を考察している。
完璧なものはない。それでもできるだけ民意をもれなくくみ取る仕組みがなければ、信頼されない。信頼されなければ制度として成り立たない。
一方で、われわれの側の意識にも、民意とは何かを正確に捉える努力が欠かせない。民意とは、一般意志であって、個々人の自分勝手な思い込みではない。
自分の意見が反映されないのは、制度が悪いのではなく、自分の意見が間違っていたと受け止められるかどうかだ。
多数決というと、勝った負けたばかりが強調されがちだが、本質はそこにない。多数決を通じて民意を醸成できているか。なぜそれが選ばれたのかは、駆け引き巧者だからではなく、選ばれるべくして選ばれるだけの理由がある。その結果に信頼感がなければ民主主義は成立しない。たまたまそうなったとか、意図的にそう誘導されたではまずいのだ。
現代は自由をはき違えていることが多い。何でもありなのが自由なのではない。自由には二種類あって、道徳的自由と市民的自由がある。
道徳的自由は、ルールを構築する自由であり、市民的自由は、そのルール内で意のままに振る舞う自由だ。
多数決も、与えられた縛りなのではなく、本来は自分たちの民意を集約する自由の成果だ。だからそれを尊重すること=自由が保障される。
だから同時に、多数決には結果がきちんと反映されているという、制度的な信頼感が必要なのだ。