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ブックレビュー アナログの逆襲 デイビッド・サックス著 を読んで

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アナログは死んだのか、それは無用の長物に成り下がったのか。

本書ではアナログの復活を通じて、アナログでなければならない必然性に光を当てていく。

 

取り上げられるものは、レコード、紙、フィルム、ボードゲーム、プリント、リアル店舗と多岐にわたり、また広く仕事や教育までをも網羅する。さらにデジタルの先端企業こそがアナログを取り入れていると説く。

 

要するに、アナログ対デジタルという、二律背反の思考そのものが間違っているのかもしれない。

両者はまったく異なる次元を表現していて、代替不可能なのだ。もちろん部分的には機能を代替できないわけではないので、すべてが置き換えられるはずだというデジタル信奉を生み出しやすい。

 

しかし、アナログが廃りきらず、むしろ逆襲ともいえる回復を示していることは、デジタルには収まりきらない、アナログの特性があることを浮き彫りにする。

それはリアリティだ。

われわれは存在自体がアナログであって、生得的にアナログなものがフィットする。それは理屈ではない。

もちろん、デジタルに置換することで、効率化を極限まで高めるようなことは可能だが、そもそも効率は機械の概念だ。人間は効率だけで動くわけではない。割り切れないのが人間らしさでもあるからだ。

言い換えれば感情(感覚)の動物といってもいいだろう。

また、人間は社会的な動物だ。ゆえに社会的なつながりを必要とするし、それを形成する手段を手放すことはできない。デジタルはそこが見えていない。効率化してプロセスを極小化することは、コスパが良いのかもしれないが、プロセスそのものに社会構築の役割を見ている立場からすれば、冒涜ともいえる行為に他ならない。

 

面倒な人間関係が錯綜する社会は、デジタルにとってはエラー、不安定要素に過ぎず、無いに越したことはないのだろう。

しかし、人間はそうした面倒な中に機微を見出し、自分と他者を相対化していくことで生きる存在だ。五感をフルに活用することで、環境を認識し、同時に自己を見出していく。それはけっして1,0で割り切れる世界ではない。

 

無限のグラデーションの中に、自らにフィットする唯一のものを見出していくこと。モノという対象物の唯一性が、自己の唯一性にもつながっていく。

また、今まさにこの一瞬を、ライブで他者と触れ合える、その感覚的な実感が、自らの生きる意味であり、価値を形成する。それが本物ということだ。

 

デジタルが便利であることは否定の使用もないが、それゆえに、デジタルは本物にはなりえない。もちろん原本は存在するとしても、無限にコピーが存在しうる世界では、そこそも本物という概念自体が成立しない。虚飾ばかりでむなしい世界でもある。

 

アナログがデジタル化されることで、世界はどんどん縮んでいき、情報がすべてを統べるような世界になったが、そこからリアリティは消失した。いや、リアリティが薄まってしまったことで、はじめてリアリティの価値に気づかされたといってもいい。

 

豊かさは高速消費とは限らないのだ。むしろ低速であること、じっくり時間をかけて、その時間そのものを満喫することこそ、真の豊かさなのかもしれない。デジタルは処理スピードを高速化することには向いているが、ある種の無駄をつくり出すことは苦手だ。

 

われわれは、無駄を悪いことだと見なしやすいが、無駄とは社会の潤滑剤でもある。逆にその無駄にこそ、個々人のその人らしさが投影されるのかもしれない。まわり道、道草は、確かに遠回りではあるのかもしれないが、そこで新たな気づきが生まれるとすれば、それはけっして無駄なものではないはずだ。むしろ最短経路ではないからこそ、見えてくる世界もある。

 

創造性は摩擦から生まれると本書にもあるとおり、人と人がぶつかりあう社会に摩擦はつきものだ。むしろ摩擦こそが社会そのもの、人間そのものでもある。その摩擦に価値を認めることのできないデジタルには、おのずと限外があるのも必定だ。

 

アナログはある種の不完全さを伴うものの、その不完全さが味を醸し出す。デジタルな時代だからこそ、アナログがかえって光り輝く時代なのだと言い換えられるのかもしれない。