大は小を兼ねない、等身大が持つ含意
物事の把握にはスケールが必要だが、それが単一だという必然はない。当然、それが時代とともに変化しないという保証もない。
グローバルが喧伝され、大きいことは正義であるかの如く、そうした単一規準を万能とみなす風潮が、足元を見えなくさせる。本来人間には、おのずとフィットするスケール感がある。等身大と言い換えてもいいかもしれない。
もちろん客観化するために、大きなスケールを参照することは有意かもしれないが、スケール自体を追いかけ始めると、論旨を見失うことになる。スケールとは使いこなすべきものであり、自分がどのようなスケールを今使っているか、把捉できることだ。
いくつかのスケールを比較対照することで、現実は立体化され、リアリティを増す。逆にスケールを間違えれば、像はぼやけて、目的すらあいまいになる。普段意識しない無色透明なスケールだからこそ、時として見直してみることが視野をクリアにする。
しかしすでに地方においては、住宅も、店舗も、公共施設も余っています。つまり量的な「供給」は既に足りているのです。そのため、単に小さくて古いものを壊し、大きくて新しいものをつくるだけでは、とんでもない失敗となり、地域をさらに衰退させることになります。