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はなから無駄などというものはない

世間一般の認識では、無駄があればそれは排除してしかるべきと誰もが答えるところだろう。はて、それではその無駄なるものは、何故に無駄なのか。

単一スケールの評価判断においては、それから外れるものがすべて無駄ということになるだろう。つまり、裏返してみれば、単一指標でない、もしくは複合指標においては、そうそう無駄などという安直なものは存在しないということになる。

これは至極当然の話で、仮にいわゆる無駄なるものを極限まで切り捨てた場合、安全弁となるバッファーまでもそぎ落としてしまい、窮屈で使い物にならないシステムが出来上がる。想定を少しでも外れれば瞬く間に瓦解する。

一見して無駄なるものにも、無駄なりの意味があるということだ。ゆえに、無駄を削るというのはあまり賢い対処法ではない。むしろ無駄を活かす、遊びを持たせることが、次なる余地を生む。

そう考えたとき、素直に無駄と言えるようなものは初めから存在しないと考えたほうがしっくりくるだろう。

つまり、生産性を上げようとする生産性至上主義では、失業者が増え、売り上げが伸びず、労働時間が長くなるばかりで収入は減っていくデフレ状態に陥りやすい。 一方、雇用を増やそうとする“資本主義と社会主義のハイブリッド”(社会民主主義)だと生活が比較的安定し、プチぜいたくする人が増え、消費が伸び、仕事が増え、収入が増えるという好循環を招きやすい。

情報源: 生産性至上主義が日本をここまで消耗させた さまざまな矛盾を抱えた人間のための「人間工学社会」を | JBpress(日本ビジネスプレス)