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おもてなしはまさに表無しかもしれない

おもてなしが一時期ブームになり、それがさも日本らしさであるかのように混同されているけれども、本当にそれでいいのか、一度立ち止まって考える必要があるだろう。

オリンピックをはじめとして、人はどうしても体裁から入る傾向にある。今の東京に相応しい、恥ずかしくないレベルの見栄えと、その延長としてのおもてなしなのだ。もっと言えば、欠点のない、完璧な状態を作ろうとする。それはおもてなしパッケージとしての完成品と言い換えられるのかもしれない。

さて、そこで、おもてなしとはそんなにわかりやすく表に出てくるものなのだろうか。実はおもてなしをおもてなしと思わせない、むしろ後ろに隠れて見えない部分がおもてなしの本質なのではないか。つまり、おもてなしをそれと気づかせず、何事もなかったようにやり過ごした時が、実はおもてなしの完成形なのかもしれないとは言えないだろうか。

最初からデフォルトで100点のおもてなし像のようなものを設定すると、一つのミスでそれは失敗に転じる。しかし、人間はミスをするものであるとの前提に立つならば、ミスをどうリカバリーできるか、それこそが本質である。ミスを認めない頑強な体制と、ミスをも包摂する柔和な体制、はたしてどちらに分があるのか。

イメージ先行で、あまりにきれいすぎるコンセプトは、かえって役立たずということにもなりかねない。もし渋谷のスクランブル交差点が、あらかじめ計画された人の行き交いだったら気持ち悪いだろう。猥雑さには猥雑さの意味がある。割り切れないものを無理に割り切ろうとするとおかしな事態を招きかねない。