レビュー:プレイ・マターズ 遊び心の哲学 を読んで
遊びとは何か?
そもそも、遊びとは一段低くみられていることもあって、それほど真剣に考えられることもないのだろう。
しかし、遊びには別の意味もある。たとえば、物と物との干渉を和らげるためには、一種のあそびが求められる。あそびがあるからこそ、うまく収まるものだってあるのだ。
人間の行動だってそうだ。遊びなしにぎちぎちに詰め込んで、絞り込んだからといって、それが結果にプラスに働くとは限らない。
それが機械ではなく人間であればなおさらだ。
動くものにはあそびが必要だし、人間のように意思をもって動くとなればなおさらだ。
本書では、人間存在の本質として「あそび」を位置づける。
あそびはあたり前、常識という思考をかき乱す。もしそれが不変の絶対線であれば、われわれは思考を停止するだろう。
しかし、そこに一石を投じ、当然と考えられていた秩序に揺れを引き起こすことができれば、われわれは思考するものとしての存在感を得る。遊びは遊びであって、遊びではない。単なる遊戯とは違うのだ。
あそびがわれわれの思考を開放する。常識、秩序をかき乱す。こうもありうるという余地をもって、可能性の地平を拡げる触媒となる。
一流のデザインを提示してきたアップルですら、あそび足りないというのは慧眼だ。
アップルは徹底的にデザインして、使い方をアフォードする。説明書がなくても使いこなせる。しかし、それはアップルが規定する使い方をアフォードしているのであって、ユーザーが自由に使い方を決めていいというものではない。
だから、アップルですら遊び心には欠けるのだ。
残念ながらデザインと遊び心は相性が悪いらしい。
いいデザインは、ある意味でわたしたちを無思考に陥れる。
調和の取れたデザインは、デザイナー思い通りにアフォードされてしまうことはあっても、ユーザーの思い通りに想定外な使い方をするのはデザインの失敗とみなされる。それが純粋な遊び心であっても。
目的収斂思考と、目的発散思考の違いだ。発散ではネガティブだとすれば、探求といってもいい。
遊び心は行動の地平を拡大する。それがもっとも人間らしいものとして。
一方デザインは、ある目的に従って、そこへ一点集中で収斂させる活動だ。機械化、工業化の系譜から出てきたデザインには、残念ながら不可避の性質だ。
もちろん、デザインだってクリエイティブだが、経済活動として収斂できないものを許容することはない。
一方の遊び心は、その収斂という発想自体に疑問符を投げかけることを旨とする。なぜなら、疑問こそが人間の思考の原資に他ならないからだ。
あそびなんて何の役にも立たないと、軽視されるのが、効率最優先の現代社会の特長だ。
しかし、一見役に立たないのと、意味がないのとは、大違いだ。
役に立たないからこそ、意味があるものこそ、遊び心だ。
創造は既存の枠を外すことで導かれる。その枠を外せる存在があそびだ。
普段無用なもの、意味のないことだと軽視される遊びだからこそ、一歩踏み込んで考えてみると、その役割が見えてくる。
わたしたちはあそび無しでもただ生きられるかもしれないが、あそび無しにはそもそも存在しえない。