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レビュー 時間は存在しない カルロ・ロヴェッリ著 を読んで

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「時間は存在しない」衝撃的な題名だ。

我々はあたり前のように時間の中を生きていると思っているし、時計を使って時間をきっちりと計っている。では何ゆえに時間は存在しないのか。

 

要するに、われわれがこれまであたり前として捉えてきたような意味での「時間」などというものは幻想にすぎないということらしい。

いわゆる絶対空間や絶対時間は虚構であって、あくまでもそれらは相対的にのみ規定されるということだ。

 

本書では、 「時間は既に、一つでもなく、方向もなく、事物と切っても切り離せず、「いま」もなく、連続でもないものとなったが、この世界が出来事のネットワークであるという事実に揺らぎはない。」とある。つまり、一般的な時間の特徴はすべて否定されているのだ。

 

われわれが思い描くような時間の普遍的特徴は、物理的にスコープしてみれば、すべて仮象であって、時間という実体はそこに認められない。ただ出来事の関係性があるのみということだ。だから自ずと、それは相対的にしか定まらないものとなる。

 

客観というと神の視座を設定してしまうが、時間の把握に神の視座は存在しない。われわれはあくまでも局所的な時間の内部にしか存在できず、その限定的な視野で物事を解釈する。時間もそうして見出される指標の一つとして、例外にはなりえない。相当に限定的なものなのだ。

 

今更、絶対的指標としての時間はないと言われても腑に落ちないのはやむを得ない。なぜなら、私たちの思考体系、論理体系が、そもそも過去形、現在形、未来形という語法によって構築されてしまっているのだから。

そこには客観的時間があるものとしてロジックが構築されているので、そのロジックで、当然とされている「時間」を否定することは一段と難しいのだ。

 

また、時間の有力な証拠としてのエントロピーも一種の錯誤にすぎないという点も見逃せない。われわれの中途半端なスケール、解像度で見ると、確かにエントロピーは増大する方向に時間が流れているように見受けられるが、スコープの解像度(前提)を変えるならば、実は粒子の乱雑度になんら違いはないとみることも可能なのだ。

我々は中途半端にグロスでものごとを捉えているがゆえに、さもエントロピーは増大するものだと思っているが、解像度が変われば事態の解釈は反転する。

エントロピーの増大が自明でなくなれば、当然普遍的な存在としての時間も自明とは言えまい。

 

普段、時間とはあまりにもあたり前に存在しているものとして内省的に見ることが難しい。しかし、本書は一つ一つその特長を潰しながら、普遍時間というもののあり得なさを示してくれるものだ。

時間の見え方が変われば、世界の見え方も変わってくる。

興味深い視点を提示してくれる良書として本書をおススメする。