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レビュー:ザ・レトリック 人生の武器としての伝える技術 ジェイ・ハインリックス著

時制といった場合、英語の文法としてそれを意識した経験はあっても、日常の話法として、それが時制+αの意図を表現しうるとはなかなか理解していないのが実情だろう。本書で押さえるべきポイントはまさにその「時制」にあるといっていい。

 ただ伝わればいい、言い表せればいいというのであれば、それほど時制をシビアに考える必要はないし、それが仮にズレていても、それほど影響はないように思われる。しかし、時制が表面的な時間表現に収まるものではなく、背後に大きな意図をはらんでいるものだとするならば、時制のコントロールなしに、的確な表現行為はおぼつかない。

本書に従えば、過去形は「非難」を、現在形は「価値観」を、そして未来形は「選択」を扱う。

つまり、そこでどの時制が使われているかで、暗に話者の意図が透けて見えるということだ。

仮に、目的とする意図、方向づけと、そこで使われる時制が一致していないとすれば、当然に期待する落としどころには向かわないし、そもそも時制を取り違えていれば、的確な表現ができていないということになる。

口では建設的な議論をといいつつ、それが過去形や現在形で表現されているならば、そこには議論の余地は含まれず、既に結論ありきの話と理解していいだろう。われわれは、あまり意識せず時制を使っていることが多いため、本人も知らず知らずに言外の意思表明をしてしまっていることになる。こうしてみると、だれでも多かれ少なかれ思い当たる節があるだけに、時制を軽視してはいけないことが実感される。

時制の働きに注意を払うならば、極端な話、内容うんぬん以前の段階で、未来形を意図的に多めに使って表現すれば、ポジティブなコミュニケーションが広がる余地が確保されるといってもいい。

少なくとも未来形は単に未来の話をするのではなく、そこに「選択」の余地を絡めることで、議論を膨らませる効果を持っていることを心に留めておくだけでも、自然な意識転換がはかられるのかもしれない。

誰でもがあたり前のように使いこなしている(と当然のように思っている)言語表現だからこそ、その機微に敏感になれるかが問われている。