人間を含めた効率と人間に資する効率 効率化のふたつの視点
効率とは善なのか?
また、人間とは多様なものか、それとも不確実なものか?
この辺の見極めを誤ると、大筋を違えることになるだろう。
人間とは、多様であり、同時に不確実だ。つまり、優位性と劣位性は表裏一体のものであり、これを切り離して考えることはできない。
しかし、機械的思考は、割り切れないものを嫌う。
ポンテンシャルといった未知数は、不安定要因としか計測できないのだ。
機械化と効率化はとても馴染みよく連動する。
雑然としたものに秩序を与えることで、アウトプットを最大化する。
それ自体は何ら間違っていないし、高い便益を享受するうえで欠かせないが、その発想の内に人間を含めてしまうかどうかは別問題だ。
効率化の一要素として、人間まで含めてしまえば、それは人間性の放棄を意味する。
効率とは果たして誰のため、何のために追求されるのか?
人間を不確実、不完全なものとして忌避するならば、それは効率によって切り捨てられる運命にならざるを得ない。
もちろん、人間の機能の限られた一部分を要素として、効率的に、機械化に差し出すことはあるだろう。しかし、人間まるごとすべてを効率対象として差し出してしまうことは、そもそもの効率化たる主人を失うことを意味するのではないか。
また、効率は縮減はできても、拡張はできない。あくまで既存の枠組みの中だけで成立する概念だ。つまり、そこに創造性の余地は見出しがたい。
もし効率しか追求しえないとすれば、世界はどんどん縮んでいかざるを得ない。残念ながら、効率とは万能ではないのだ。
つまり、効率を車の片輪とするならば、もう一方には、対峙する創造の輪がなければ、駆動車として成立しないのだ。
ではなぜ効率とはここまで信奉されるのか?
それは単にわかりやすいし取り組みやすいからだ。
すでに現前にあるものを、粛々と切り詰めるのは、その思考自体が端的で効率が良い。われわれにとって負荷の低い、御しやすい正義なのだ。
結局のところ、効率の魔の手にはまらないようにするためには、効率を誰のために、何のために追求するかを常に対置して考えられなければならない。
そうでないと効率はすぐに暴走する。
効率は具現しやすい正義だからこそ、扱いに細心の配慮を必要とする。
そう、効率は人間にとっての効率であって、人間は効率対象ではない。
ここをはき違えると、今流行りの人間が勝つか機械が勝つかといった発想につながらざるをえない。
シンギュラリティの主人はだれか?
今一度問うべきポイントはそこにある。