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科学と非科学 その正体を探る を読んで

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科学で最も避けるべきは何だろうか。それは科学を無前提に崇め奉る、いわゆる「科学教」に陥ることだろう。

科学を扱うということは、それを「正しく」扱うということであって、科学それ自体が「正しい」と妄信することではない。

こうした謙虚な姿勢が求められているはずなのに、残念ながら、科学こそは万能だと錯覚して、せっせと科学教を広めようとしている輩が多いというのも現実だ。

本書はラフな読み物ながら、その辺の科学に関わる問題に光を当てている。気軽に科学とは何かを振り返るものとして、有益な視点を与えてくれるだろう。

 

科学には二つの側面があり、理想状態における法則性を追求するものと、現実における最適解(近似解)を適用するものがある。ここが科学の理想と限界を反映している。

科学とはあくまでも一般論を示すのであって、個別解を求めるものではないのだ。だから、正しい、正しくないの2択ではなく、確からしさ〇〇%という近似解を提示する。

 

この大原則を踏み間違えると、それこそ正しく科学を扱うことができなくなる。科学とはあくまでも現状におけるもっとも確からしい仮説を提示するものであって、無謬性の完全解を提示するものではないのだ。

だから科学は間違うし、間違うから成長、発展していく。さらにそれを裁量する人の意志が付け加わって初めて成立するという特徴を持つ。

科学だから、何も考えずに、機械的に処理できるのではなく、科学こそ、それに寄り添う人を必要とするのだ。

 

この辺を科学教ははき違える。科学を万能とみなし、そこに依存して、思考を放棄してしまう。なぜなら科学は間違えないし、人の曖昧さより科学の確実さに軍配を挙げるからだ。

 

もちろん科学の有用性がそれで否定されるわけではないが、使い方を誤れば、薬も毒に変じる。科学はそれを用いる人と適切に組み合わされることで初めてその効用をフルに引き出すことができる。そのことを科学信奉者は忘れがちだ。

 

昨今のAIの議論は、さらにそうした人間乖離の姿勢を強化してしまう。機械のほうが人よりもブレない判断ができるはずだということで。

確かにブレないことは通常オペレーションとして大事ではあるが、時としてブレるからこそ、その躊躇のようなものが、例外対応に厚みをもたらすかもしれない。

 

機械には処理できないものはない。というか想定されていない。しかし現実には処理しかねるものが生じる可能性が排除できない。想定外とはそういうことだ。

 

科学+人という複合システムであれば、そこにバッファを織り込むことができる。しかし機械的な意味での科学オンリーでは、その宿命として最適解を追求してしまうため、基本的にそれ以外の非合理、非効率なものはすべて排除されてしまうだろう。

しかし、ときにその非合理、非効率な「無駄」ともいうべきことが、生命線となる。それが想定外だ。

本来科学にはそうした無駄を織り込んで、行きつ戻りつするステップが含まれるはずだし、それが正しい科学の適用方法であるわけだが、効率や成果を極限まで追求するような政治経済的発想、機械的な科学適用による処理では、それがいの一番に削られてしまう。

 

科学があたり前にわれわれの生活に溶け込んでいる現代だからこそ、科学で何ができるのか、科学で何ができないのかの線引きを改めて自覚する必要がある。そこを取り違えていては、せっかくの科学も無用の長物になりかねない。

とくに、盲目的に科学に正しさを求めてしまう人は、注意が必要だ。