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レビュー:現象学入門 竹田青嗣著

主観と客観の二項対比というロジックは、あまりに深く刷り込まれているため、よほど意識しない限り、その呪縛から逃れることは難しい。もちろん、素朴な自然科学に限っての話ならば、とくに支障はないのだろう。ただし、ことが人間行動にかかる領域の話となると、そう簡単にはいかない。

 一般には客観をものごとを確証しうる手段だと割り切って考えるのだろうが、主観にこそわれわれの存立の源泉があるとするならば、単なる主客の分離ではものごとは解決しない。

現象学は、主客を乗り越えるところにその優位性がある。ただし、主客の論理をいまだ引きずったままだと、主観が独我論相対主義といった虚無的概念につながってしまう。

主客を乗り越えるということは、徹底的に主観の目線に沿うことによって、内から主客の線引きすら解体していくということだ。ものごとが疑いえない=確証とは、客観だからではなく、われわれの中に、そもそも不可疑の源泉があるからだと捉えなおす。

何が不可疑なのか。それはわれわれが意思の力によって「自由」に思考する主観領域にあって、それでもコントロールできないもの。自由意思とは別にわれわれが外からの影響を受けて自ずと知覚してしまうもの。

主観にあっても、それが自身の意思とは直結していないものが、不可疑の土台となりうる。

主客の対立構図では、主観を排除することで、確からしさの見通しを確立するが、それは分かりやすい部分だけに焦点を絞っただけで、必ずしも主観を乗り越えたものではない。主観をすべて削ってしまえば、人間の人間らしい部分をそぎ落として、人間を機械同様に貶めることにもなる。

割り切れないものは、割り切れないからこそ意味があるのであって、割り切れないものを力ずくで割り切ればことが解決するわけではない。

私たちはどうしても主客分離の思考に気づかないうちに囚われてしまいがちである。だからこそ、折々にこの現象学的な視点に立ち返ることに意味がある。