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ライフ・オブ・ラインズ 線の生態人類学 ティム・インゴルド を読んで

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ティム・インゴルド著、ラインズ 線の文化史の続編である。前著はなかなか面白いと思ったが、本書はその延長的位置づけなので、それほど新しい感じはなかった。全体を俯瞰的に捉える意味では、まずは前著にあたるのがいいだろう。

敢えて本書で注目するならば、26章の「教育と注意」が含蓄のある内容だ。

われわれはともすると知識偏重の世界で生きているので、何事も理屈で整理したがるものだ。しかし一方で、論理のフィルターを噛ませるということは、現実をそのまま、あるがままで捉えることを難しくしてしまう。

知りすぎてしまって見えなくなっているとしたら、知識はまやかしなのか。現実を素直に、そこにあるものとして捉えることは、知を蓄えるのとは別の感度を必要とするのかもしれない。

物事を体系化することで見通しをつけるのは、知識を内に抱え込む志向だが、一方で現実に沿って、そこに自ら立ち、歩を進めるのは外に働きかける志向だ。教育的効果としては本来、この二つの指向性があるはずだが、どうしても前者に偏重する傾向が認められる。表象と現実は別物だが、前者は表象を現実と意図的に読み違えることをよしとするアプローチでもある。

理解することが着地点であれば、それでもかまわないのかもしれないが、理解することと現実を紡ぐことがイコールとは限らない。そもそも、現実に着地点など想定できるのか。今を生きるという話は現実のうちで、そこに入りこんだ視座をもつが、いわゆる客観的な世界とは、現実と距離を置き、それが一定の帰結をもつものとして整理された状態を前提とする。

インゴルドの用語ではこれらは迷宮と迷路の違いとして言い表されているが、迷路が俯瞰のパースペクティブを持つのに対し、迷宮は当事者的で、パースペクティブという発想そのものからの開放を意味する。

そこには目的も終わりもなく、ただ刹那的な経験のみが現在する。知識のように確固たる依り代は持たないが、逆に不安定だからこそ、移ろいな現実にしっかりと目を開くことができるのかもしれない。

われわれは見ているようで見ていない。わかっているようでわかっていない。知識とは理解を促進するのではなく、理解を停止するものだとしたら、その使い方を見直してみることが必要なのかもしれない。

こうした点で、本章の「教育と注意」という視点はとても面白いと思う。

私個人としては本書においては26章を一番に推奨する。