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NEW POWER これからの世界の「新しい力」を手に入れろ ジェレミー・ハイマンズ/ヘンリー・ティムズ を読んで

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まず初めにパワー(権力)といったとき、私たちは暗黙の裡に、ピラミッド型のヒエラルキーに沿った権力を行使する側と権力を行使される側との対比による構図をイメージしてしまうだろう。それをイメージしているという認識すらないままに。

つまりパワーとはこういうものという前提、刷り込みが存在していて、私たちはそれを無自覚のうちに受け入れてしまう。だからNEW POWERといってみても、このフレームから逃れるのはそう簡単ではない。

本書では旧来のOLD POWERに対置してNEW POWERを位置づけているが、古き権力構造に飼いならされているわれわれは、ニューパワーといいつつも、それをオールドパワーの文脈で読み解くミスを犯しがちだ。それらが全く次元の異なるものだったとしても。

権力は付与する側がコントロール権を持ち、従わせる側はそれをそのまま受け入れるという、二極対立的な構図であることが一般的だ。対するニューパワーなるものは、何かを得るというよりも、何かを為す=自ら働きかけることに主眼を置く。

そこでは自らのうちにどれだけ抱え込めるか(get)という囲い込みの発想から、自らの外にどれだけ影響を与えられるか(give)という解き放ちへの反転が意図されている。

しかしながらわれわれは、与える側、与えられる側という対比構造、色分けが大好きなので、これを脇に置いて考えるのはそう簡単な話ではない。それが妥当かどうか以前に、どっぷりと浸かりすぎて、前提に囚われている自覚すら困難なのだ。

 

パワーの流れはマネーの流れと連動する部分でもある。パワーだけを開放し、マネーは旧体系に縛られているとしたら、それは見せかけのパワーであることが多いだろう。ゆえに、両者の流れのシンクロを見ていくことが、一つの判断材料となる。

また、ニューパワーの価値はマネーだけに依存するとは限らない。旧態然の権力はマネーと等価のように判断されてきたが、もしマネー以外に、いやマネー以上に価値を顕現するものが認められたなら、古き良きヒエラルキーが覆される。参加とはまさにこれにあたる価値だ。

参加とそれを通じた連帯感、当事者感は、金銭的には代替しがたい。消費のように自らを通り過ぎる刹那的な経済と違い、そこに自らを投影し、その一部になりきることは、それ自体がパワーなのだ。パワーを右から左へ売り買いする外部資産と位置付けるのと違い、参加はパワーと自らを一体化させる。外部のパワーに振り回される立場から、パワーを内部に育てていくことになる。ゆえにそれは次元の異なる価値だといえるのだ。

 

本書では、オールドパワーからニューパワーへの転換を安易に求めているわけではなく、それをブレンド、どう使い分けるかだと説いている。つまり、どちらか一方が正しいというよりも、組み合わせることで運動を持続させるエンジンとなる。

参加とは無条件に称賛されるわけではなく、適切な統制と組み合わせられない限り、一時のブームで霧散してしまうことも多い。

さらに、ニューパワーは価値観とマネジメントスタイルによる4象限で分類し、それぞれの特性が分析される。ニューパワーの価値観で、ニューパワーの統制方法はもちろん、ニューパワーの価値観を旧権力スタイルで具現するという場合も、また、旧態然とした価値観をニューパワーの統制で具現するという方法もある。

 

SNSの隆盛によって、あたかもニューパワー全盛かのように思われがちだが、ツールの自由度がわれわれのパワーの自由度に比例しているとは限らない。また、パワーとは自由であればよいというものではなく、何をいかに具現しうるかで測られるものだ。

つまり、オールドパワーがニューパワーにとって代わるという単線的な移行というよりも、パワーというロジックそのものが解体され、また新たに別のものとして構成しなおされるんだと考えたほうが間違いがないだろう。

どうしても感情的に、権力者からパワーを奪取して、民衆にパワーを付与するような、安直なシナリオとして描かれやすいテーマではあるが、それではパワーを付け替えただけで、何らパワーそのものに切り込んだことにはならない。

ニューパワーのパワーとは、単なる権力のことではなく、われわれがどう生きたいかと直結するものだ。誰かに何かをさせるのではなく、自分がどう行動するか、自分たちをどう構成するかに関わるものだ。

その意味でパワーとは、自力と捉えるのがいいのかもしれない。