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矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る 御田寺圭 著 を読んで

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世の中は矛盾にあふれている。本書で言われる「かわいそうランキング」とは象徴的な表現だ。みんながかわいそうと思ってくれる(=ニュースバリューがある)ものにはスポットがあてらえる一方で、それ以外は取り上げらえることもなく、その存在すら無きものとして放置されるのが常だ。

昨今の注目経済では、インスタ映えに象徴されるように、一部の目を引くものばかりに焦点があてられる一方で、それほどでもないものは全く取り上げられることもない。視聴率に左右される主要メディアの振る舞いも同じことだ。印象的な表の一面ばかりが強調され、それ以外の部分は覆い隠されてしまう。

少なくとも、社会現象とは、いくつもの側面から成り立っている、複眼的なものであり、見方が違えば、評価も変わる。それらすべてが整合されているわけではないし、当然に矛盾を含んだものであるのが常だ。

矛盾社会とは、矛盾が悪い、だから矛盾をなくせというほど単純なものではないだろう。矛盾をあたり前のように含んでいるのが社会なのだ。だから、矛盾がないのが正しい在り方だと、正解を安直に模索するのではなく、矛盾を矛盾として正当に認められる複眼思考が必要となる。

物事には表もあれば裏もある。それはものごとのそれぞれ象徴的な一面であって、どちらかに優越があるわけではない。何かに着目するということは、それ以外の何かを留保することと引き替えのものだ。

センシティブなものや分かりやすいものほど、特定の一面ばかりが強調され、他が見えにくくなる。一般に矛盾とは、整合が取れていない悪いことのたとえとして用いられるが、現実とは本来、そうした矛盾があって当然のものだ。観点や視点が複数あるということは、必然的に複数の解釈の存在を認めざるを得ない。

要するに、スポットを当てることは、必然として明るい部分と暗い部分をつくりだす。

本書はいわばそうした観点として、これまでは暗部に甘んじていたものを明部にしたらどうなるかといった例示といっていいだろう。

だから矛盾をどう乗り越えるべきかという解法としてこれを捉えようとすることは不可能なのだ。昨今の社会の不安定さを、社会矛盾に原因を求めるというのはだから間違っているのかもしれない。なぜなら、それが仮に間違っていたとしても、それを回避する道はないのだから。

ただし、時代によってバランスの位置は変わり、矛盾の諸相も変化する。世界が多面的であるのと同じく、矛盾の顕在化も多面的になりうる。いわゆる常識という一基準できれいに切り分けられるとは限らないのだ。

その意味から、矛盾をあって当然のものとして受け止めつつ、そうした矛盾がどうして生じるのか、また、矛盾という問題の諸相がどう移り変わってきたのかを押さえていくことが求めらえる。

本書の副題は、その「自由」が世界を縛るとある。

自由とは解放と制限とで構成される、表裏一体のものだ。オールオアナッシングとはいかない。グレーな色調といってもいいだろう。完全なる自由などというものは幻想であって、一定の制約があるからこそ、自由に意味が生まれる。

何かを得ることは、何かを失うことと不可分だともいえるだろう。全部に全部、360度に注意を向けるなどということはできないのだ。できないからダメなのではなく、できないという現実を見据え、残念ながら自分の認識には欠けた部分があるという自覚を怠ってはならないと言い換えることもできるだろう。

社会とは、それぞれが自己の欲求や自由を追い求め、同時に他者という存在を認め合う、そうした思惑がぶつかり合う舞台だ。ゆえに干渉し、矛盾も生じうる。ただしそうした不整合も、許容しうるふり幅のようなものがあるだろう。何をどこまで許し得るかということは、それこそ社会的合意として調整していくしかないわけだが、見えていないということは、調整の舞台から欠落してしまうことを意味する。

どうあがいても、個々人の認識レベルでは、その欠落を補完することは難しい。だからこそ、社会という他者の視線を組み合わせる舞台が必要となるわけだ。矛盾をきちんと矛盾だと認められるか、ここからはじめることになるのかもしれない。