単に満たすのではない解法
かつてのラッダイト運動の現代版が人工知能への危機感なのかもしれない。単に充足させればいい作業はAIに置き換えられるというわけだ。さあどうするか?この流れを止められるのか?
そもそも充足させるという定型的発想から逃れられないうちは、時の流れに翻弄されるだけだろう。機械の効率には敵わない。しかし、満たすという発想をいったん脇に退けることができれば、状況は変えられるかもしれない。
なぜなら、私たちは単に満たすだけを目的とはしていないからだ。もちろん、当初の目的として、いかに不足を満たすかは大事な問題だったのだろう。しかし、ある程度満たすことが叶った現代では、目的性にも変化が生じているはずだ。
なぜ社会を形成し、人と関わるのか。そこには必要もさることながら、関わりたいとの意思があるのではないか。「関わる」こと自体を大きな目的と位置付けられるならば、AIを恐れる必要はない。なぜならそこにAIを噛ませる必然性はなくなるからだ。
もちろん関りは良いことばかりではない。相応の面倒も伴うものである。しかし、永遠に足りえない存在としての個人が、互いに関わることを通じで、足らないことを認めあえるならば、それは満たすことを目指す志向とは次元の異なる世界として、今後とも存在意義を失うことはないだろう。
今後「人工知能革命」が加速していくと、単純作業のような仕事はどんどんAIが担っていくことになるといわれています。だとすれば、人間が仕事をしていくうえで、どんなことが重要になっていくのでしょうか? シンプルな表現を用いるなら、それは「他人から感謝されて、お金をもらえること」。