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共感と異質性の合間を求めて

結局ダイバーシティなどお題目に過ぎないのか。

われわれは自然と受け入れられる者同士で凝り固まる傾向がある。異質さは本質的に脅威なのだ。だとすれば、なぜそれを求めなければならないか。

同質でありたいという願望と、異質さが根源的に無くならないという事実は相いれない。もちろん異質ばかりでは収拾がつかないだろうが、異質がまったく無ければないで味気ない。

古来より人間がスパイスを珍重してきたように、異質さは人間レベルのスパイスだ。ある程度異質さに触れていなければ個々人の素材の味が活きてこない。

今の時代は、「共感できるもの」ばかりが広まってしまう世の中だ。昔から、当然そうだっただろうが、SNSなどの広がりによって、その傾向は加速度的に強まった。そのこと自体は、良いことだと思う。しかしその傾向が強まることで、「受け入れられないもの」「異質なもの」が、本人が意識しなくても自然と日常の中から排除されていってしまう、ということが、僕は怖いな、と感じられる。

情報源: 「みんな分かり合える」なんて大間違いだ 共感できない、伝わらないことの大事さが伝わる3作品 | JBpress(日本ビジネスプレス)

共感を否定することは難しい。一般に共感は欠かせないものだとみなされている。それは社会的な人間の特質として最低限担保されなければ支障をきたすものでもある。一方で、耳障りのいいものばかりを求めてしまうと、コミュニティは劣化していく。匙加減がむずかしいところだ。

そう考えると、共感だけ、異質さだけでは成立しないものの、両方を併せ持つことではじめて、成立するのが社会なのかもしれない。真逆のものを併せ持つというと矛盾しているようだが、そもそも矛盾しているものが寄せ集まってこそダイナミクスは発揮される。とかくどちらか一方が正しいものだと決めつけて、それ以外を排除するとの短絡化が安易に求められやすいが、矛盾を良い意味で楽しめる度量が、社会たる活力の糧となるのかもしれない。