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責任に向き合うための方途 人格と行為はイコールではない

責任というテーマは誰しも避けられるならば避けたいのが本音かもしれません。しかし、責任の問題を回避するということは、自らの主体性を放棄するに等しいものです。社会的存在として認められることを善しとする以上、自己の役割から逃避することは叶いません。

このように、避けることのできない責任であれば、それに縛られるよりは、それを使いこなしたほうが得策ではないでしょうか。責任とは、われわれに一定の縛りや負荷を与えるものであると同時に、われわれの存在意義、立脚基盤を形成してくれるものでもあるのです。

ユダヤ人の思考パターンには「人」と「行為」を分けるカルチャーがある。日本人は、人を褒めると伸びるというが、人は褒められると傲慢にもなる。そ こで、ユダヤ人は人を褒めず、「行為」を褒める。あなたの行為や発言や作り上げたものがすばらしいのであって、あなたがすばらしいのではないと考える。 逆に捉えると、あなたの失敗とあなたは別ということになり、失敗そのものを直視し、「失敗したあなた」を責めることはない。 グローバルWebとオム二チャネルの具体的な失敗研究 ダイヤモンドオンライン

私たちはどうしても行動主体としての人と実行動を分かちがたく考える傾向があります。これは、その人が意図的に、明確な判断の結果として行動しているとの前提にたっているからです。確かに責任を持って行動するという意味において、個々人のコミットを無視することはできないでしょう。

一方で責任の処理を誤ればマイナス効果しか生まないものです。よく責任をとるという言い方がされますが、責任をとることは社会的に切り離すことで達せられるものでしょうか。むしろリカーバーしてこそ責任を完遂することになるはずです。

結果責任を一意に人に負わす発想は、学習効果を高めることにはつながりません。責任者を切り捨て、すげ替えて、なかったことにする発想は、見方を変えれば周到な責任回避とも解せます。

責任者を罰することでは、一時的に溜飲を下げる効果はあるのかもしれませんが、責任をリセットすればイコール責任が果たされると考えるのは拙速です。責任は個人的使命であると同時に社会的連帯の課題であることを見損なうと、責任という役割を社会に体現することはできなくなってしまいます。

責任の問題は、簡単に個人に切り分けることができないからこそ、個人個人が責任を意識することに意味があるように思います。われわれの行動は個人的行動であると同時に組織的行動であり、また社会的行動なのです。

失敗を責めることが第一義なのか、それとも失敗から学ぶことが第一義なのか、今一度問い直してみる必要がありまそうです。ネットワーク化され、高度化した社会にあっては、失敗を利用し尽くすことこそ、未来への投資と考えるべきです。