錯覚としてのコミュニケーション
分かり合えないにもかかわらず、それでも分かりたい、分かろうとする矛盾がコミュニケーションにはある。
その意味では、コミュニケーションをコントロールすることはできないと真摯に捉えるべきかもしれない。できることはさも通じているかの如くキャッチボールを継続することだけだ。それを虚無的だと思えば身もふたもない話だが、自分は理解していると尊大になるよりは、自分には理解しきれないものだと謙虚に受け止める覚悟も必要といえないか。
まさにコミュニケーションには「手探り」というフレーズがしっくりくる。だからこそ、互いが歩み寄れる余地が生まれるのかもしれない。正しさを求める向きには、100%通じ合えなければダメだと思い込みがちである。しかしたとえ8割でも、おおよそ伝われば評価できるのではないか。むしろそれでも埋めがたい領域が残っていることが、将来に向けたコミュニケーションを継続する意義として大事なのかもしれない。
コミュニケーションを成立させるのは受け手です。内容を理解しているかにかかわらず、受け手が知覚して、コミュニケーションが成立していると感じれば成功なのです。