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レビュー:技術の完成 フリードリヒ・ゲオルク・ユンガー著 を読んで

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タイトルの通り、技術を主題に据えた書籍である。

では、技術の完成とは何か。それが意味するところは。

 

技術の完成といっても、究極の技術化がもたらす理想郷というわけではなさそうだ。

むしろ、技術が行き着くところまで行きついてしまったとき、そこに待ち受けるであろう不自由さや、人間性の欠如といったものが想起されている。

 

ベースにあるのは急進的な技術化の進展に対する懐疑であり、警鐘だ。

本書はまさに20世紀前半の機械化が善として進展する時代背景を舞台としている。であるから、今現在の情報化を中心とする技術感とは微妙に温度差が異なる部分もある。

しかし、技術一般が持つ効用と反作用という問題意識は、時代を超えて共通する部分でもあり、現代の技術を自省的に捉えなおすのに、貴重な視座を与えてくれるものではある。

 

技術化というと、とかく、何が新たに可能となったのか、顕在的なプラスのインパクトによって評価が行われる傾向が強い。

しかし本当に問題なのは、技術があたり前のものとして、何ら違和感なく社会に溶け込んでしまったあとで、われわれの目からは見えなくなってしまう部分だ。

 

われわれは、これまでの技術的便益を当然のものとして享受してしまっているので、どれが本当に技術由来のものであるのか、既に見分けがつかなくなっている。

その典型的なものが「合理化」だ。

合理的であることを良しとする価値観は、今更何ら疑ってかかるものではない。あたり前に過ぎるくらいあたり前のことだ。

 

しかし、人間は本来、それほど合理的な存在ではないし、技術がこれほどまでに普及する以前には、合理的であることがこれほど幅を利かせることはなかった。

 

もちろん、合理的であること自体が悪いわけではない。ただ、合理的であろうとするゆえに、それ以外の指標を持たない、とかく合理的であることが最優先される、一極的判断指標に縛られることが問題なのだ。それも無自覚的に。

 

技術化=合理化=(技術的)組織化という基準の優位性は現代において圧倒的だ。

あまりに普遍化しすぎていて、それが技術に由来することすら気づいていない。同時に、技術がなしえることを鑑みれば、一種の万能感や高揚感を生じさせる。その意味で技術は媚薬のようなものなのかもしれない。使い方を誤れば決定的な致命傷をも与えかねないような。

 

「生きている」ものと「死んでいる」もの。その違いは象徴的だ。

いわば技術は「死んでいる」ものの領域を束ねる。死んでいるからこそ、徹底的に機能的に利用し尽くすことが可能になる。

一方で人間は「生きている」ものなのだが、どんどん技術に絡め取られていっている。生きているものが死んでいるものに押し負け、生気を失っていく。

それが技術化が持つ裏の顔だ。

 

われわれは技術を適宜使いこなしているようでいて、その実、技術に囚われ、技術のしもべと化しているのではないか。

技術の行き着くところは、ほんとうにわれわれが目指しているものなのか。

それとも、技術が行き着いたところには、もはや人間がそこに居場所を確保することはできないのではないか。

 

本書でユンガーが訴えかけているのは、こうした技術に対する、徹底的な懐疑と、それに無頓着なわれわれ人間に対する警鐘だ。

 

技術に対する批判的視座を確保する橋頭保として一読をお勧めする。