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よい制約とわるい制約、なにが違うのか?

自由と制約とはセットで扱われるものです。無条件の自由というのは幻想です。制約という縛りがあってこそ、自由という特質が顕在化することになります。ですから、自由に発想するというためには、適切な枠組みを用意するという準備が不可欠だということです。

<インサイドボックス 究極の創造的思考法>の中でも、著者は発想を逆転し、制約を活用することを説いています。

これは、多くの人の常識に反する発想だ。すでに述べたように、イノベーションを成し遂げるためには、自分の世界の外に足を踏み出さなくてはならないと、ほとんどの人が思い込んでいる。…しかし実際には、その世界の内側を探索することこそがイノベーションへの道なのだ。 インサイドボックス 究極の創造的思考法 ジェイコブ・ゴールデンバーグ、ドリュー・ボイド著

以前、“前提を疑う”という話題において、あたり前で疑う余地のないと思い込んでいる、無自覚な縛りから意識的に踏み出すことをお話ししました。これに対して、今回は縛りを受け入れろとは、一見矛盾するように感じるかもしれません。しかし、前回問題としたのは、無自覚にという部分にあったことを改めて確認しておきます。

つまり、制約にも二つの側面があるということです。 それは、極めて受動的にそれに単純に従うという場合と、意識的に制約を取り込んでそれを活用するという視点です。

言い換えるならば、脱出不能の障壁なのか、乗り越え得るハードルなのかということです。前者では、井の中の蛙ではありませんが、もうそれは絶対的で何ら抵抗しようのないもの、隔絶されることで、意識の深部に埋め込まれ、いまやそれを疑いうる余地すらないという事態です。

一方後者では、ハードルはある程度自分自身の意思をそこに介在させることが可能です。ハードルとは乗り越えるためにあるわけですから、そこに絶対視などという考えはありません。いかに乗り越えるか、また、超越できたら次の高さにハードルを上げるという、意識的な関与がそこには認められます。

このように考えてくると、自由とは制約への挑戦と言い換えることができるかもしれません。何でもありだから自由なのではなく、意思を持って果敢に取り組んでいくことが認められているという意味で自由なのです。ですから制約とはマイナスの表現ではなく、むしろわれわれの意識を引き上げてくれる触媒として、積極的に評価されてしかるべきものです。

あなたにとっての制約、障害はプラスに捉えられているでしょうか?