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正しい景観など存在するのか

100年を過ぎれば、否応なしにそれが確たる遺産へと昇華される。その意味においては、どの時代まで遡ってそれを原風景と位置づけるかは、あくまで立ち位置次第なのだ。

高度成長期が猥雑であったのは事実かもしれないが、それも100年たてば立派な歴史遺産の体を成す。現在を起点に考えれば明治期が伝統のそれっぽく見えるのであって、50年前であればまた違った認識であったろうし、50年後では今とは異なり、さらにまた変化していることだろう。

要は、単に懐古趣味としてあの頃はよかったではなく、その場オリジナルの景観を、今現在も進行形として育てていくということに他ならない。なぜなら時間は巻き戻すものではなく、刻々と積み上げていくものだから。

日本橋は開通から半世紀たって首都高に覆われ、それからまた半世紀がすぎた。ある世代以降の東京の人にとっては、日本橋と首都高は当たり前の組み合わせだ。首都高と東京の近代化はそれほどまでに「悪しきモデル」であり、数千億円かけて排除すべきものなのだろうか? それで手に入るのは、高層ビルに切り取られた空と、白日の下にさらされた繊細なデザインの橋だけなのである。

情報源: 首都高を「醜い景観」と呼ぶ残念な人たち | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online