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時間とは資本の論理で十分コントロールしうるのか?

人間にとってのもっとも貴重な資源といえば、時間といえるかもしれません。他に代えられない、限られたものという意味では、今も昔もその希少性に変わりはないでしょう。

多くの産業が主要命題とすることは「消費者の時間制約の高まりを認識し、時間価値に見合う業態・サービス・商品を作っていくことで、消費者の時間価値を極大化する」ということになります。 鳥瞰的に見れば、『時間資本主義の時代』においては、全ての商品・サービスは、他の全ての商品・サービスと競合すると言えます。消費者一人ひとりの24時間という「時間」を取り合う競合です。 “時間価値”という補助線で浮かび上がる新しい経済秩序 全ての商品・サービスが、消費者の24時間を奪い合う時代に 日経ビジネス

限られているからこそ、自ずとそれを最大限有効に活用するという方向に目が向きがちです。確かに、無為に過ごされる時間を有用なかたちに転化することには相応の意義が認められるのも事実です。

しかし、はたして時間とは、そのように最大限有効活用するというだけでいいのでしょうか?

逆説的な意味合いとして、無駄な時間こそが新たな創造の源泉となることも十分にあります。その意味で、もしかすると単純に無駄と言い切れる時間など存在しないのかもしれません。

とかく資本の論理に従えば、効率や最適化といった合理性が追求されるわけですが、人間にとっての時間とは、考え方ひとつで、伸び縮みしたり、知識というかたちで内面に蓄積されたりと、多義的にとらえることも可能です。

いくら極大化して活用しようとも、生命としての限界もあります。このように、時間の有効化については通常の財と類似する部分と、まったく異なる特性を持つ部分との見極めが求められます。