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間(行間)に着目する

ターゲットとして物自体を捉えるのか、対象どうしの相関、間を捉えるのか、この違いは大きいと言えます。インテリジェンスの語意に沿うならば、とくに後者に着目する必要があります。

情報一つとっても、単独で存在することなどまずあり得ません。情報と情報、情報と人、さらには人と人との間には密接な影響関係があり、結びつきの数だけ多 様性が作り出されます。個々の情報自体が有用か否かももちろん大事ですが、それを取り巻く背景、「情報が指し示す意味合いは何か」、「情報に基づいてどう 判断するか」、活用面での機能が問われています。

情報活用(単)=個別情報(自体)×判断(意思決定)

まずはこれが基本形です。さらに状況を実態的に追いかけるなら、これに関係性(文脈)が掛け合わされます。

情報活用(複)=情報(自体)×相関(文脈)×判断(意思決定)

活用という能動的な指標では、対象物(名詞)として彼岸に位置付けられていたものが、主体行動(動詞)として此岸に引き寄せられます。客観としての観察、 状況認識を優先するならば前者のスタンスですが、経営において(経営者として)課題に向き合う場合、当然後者の立ち位置が求められます。

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こうした区別は、例示的に自身を頭とからだに分けてみるとより判然とするでしょう。 一般的な認識では、頭脳に身体が付随します。言い換えるならば、頭脳が主、身体が従という位置づけです。この枠組みでは、当然インテリジェンスとは頭脳の 明晰さと見なされます。しかし、これほどシンプルに、頭脳は身体に直結しているでしょうか。わかることはできることと言いきれるでしょうか。

身体的な具現能力を“身体能”ないし“行動能”として、頭脳や知能と対置するものと位置付けるならば、情報に係る判断を総合的に行い、行動に結びつけるの は、まさにこの身体能ではないでしょうか。体現することに相応の比重をかけるならば、頭脳ばかりを過剰評価しては本質を見失うことにもなりかねません。

間に着目するとはどういうことか。 身体能は身体(自体)ではありません。身体から生み出される機能として、間に存するものです。ゆえに当然、頭脳であるはずもありません。

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対象物でないということは道具や技術単体ということでもないはずです。インテリジェンスは経営における使い勝手の良いツールとしてスポット的に移植されることはありません。というよりそのような使い方はできません。 なぜならそれは能力として間に存在し、行動と不可分なものだからです。むしろ機能性からして、インテリジェンスはコミュニケーションの一種と位置付けたほうが実態に近いと言えるでしょう。

ナレッジといった場合、道具、もしくは素材として、適宜導入されるイメージの名詞的なものです。 仮に個々人が持つスキル=インテリジェンスとした場合、これも人に内在する能力として、道具同様に見立てられます。

一方で関係性を舞台に、働きかける行為に着目した場合、これは媒介行動であって、特定個人に内包しえない、動詞的なものの見方です。 インテリジェンスは道具なのか、それとも活動なのか。 いろいろな捉え方があるでしょうが、ここでは主体の機能に着目する立場から、後者の立場をとります。誰かが持つ特定の能力ではなく、フィールドや基盤の特 性であって、その上で個々人が相互に振舞う状況を想定します。インテリジェンスな環境とはそういうものではないでしょうか。

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