インテリジェンスとセレンディピティ
インテリジェンスを人間内面の知的作用として捉えたとき、それはセレンディピティと同質のものと言っていいのだろうか。
確かにその基となる素養、素性の部分では両者にそれほど違いはないかもしれません。人間は本来的にインテリジェンスな生き物だということです。しかしなが ら、人間の持つ学習能力の側面や成長に伴う社会的適応性と照らして鑑みるならば、セレンディピティだけでインテリジェンスを説明づけるのはいささか早計か もしれません。
インテリジェンスはわれわれ自身の手で紡いでいく性質のものであり、また他者とのインタラクションを通じてブラッシュアップ可能なものだからです。この”磨き”の過程が含まれているからこそ、インテリジェンスは奥が深いのであり、まだまだ未開拓の分野として掘り下げる価値があるともいえます。
さらに“気づき”に相当する働きに着目して、それを複層的に捉えていくとどうでしょうか。
インテリジェンスを構成するものは、セレンディピティはもちろん、インサイトやリテラシーを含め、より能動的、外延的な働きがそこには包摂されるでしょう。 さらにインテリジェンスでは、外部環境とのインタラクションまでをそこに取り込みつつ成長していくものと理解できます。