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大衆が起点となる

大衆=衆愚のように、どうも大衆という表現には、それを卑下するニュアンスが自ずと含まれているように感じられる。

旧メディア側からの視点では、情報化社会によって、大衆が情報発信するようになり、玉石混交、質が低下したと嘆くことが常である。その背景には、マスメディアとは受け手を指してのマスであって、一方の送り手は選ばれし者であるとの前提が隠れている。

情報の流れが変わったということは、統制の方法も変わるということだ。

しかし、現代世界において、リアルな主人公は「大衆」であり、彼らの当たり前の「欲望」ではないか。しかし、そこには目が向けられていないと。 東さんは、政治や世界を論じる人間が、大衆社会に住んでいながら、少数者しかたどり着けない人間像を前提に議論を組み立てることに、異議を表明する。資本主義やグローバルなものが満たしてくれる「欲望」を否定する知識人に、世界や人間性を正確に叙述することや変化を巻き起こすことなど可能なのだろうか。

情報源: 『ゲンロン0 観光客の哲学』 東浩紀著 評・三浦瑠麗(国際政治学者・東京大講師) : ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)