本質ありきとは限らない
本質ありきという考え方は、ある種の正解を求める思考と共通するので、かえって発想を狭めてしまう可能性をはらんでいる。
原因と結果という帰結でものごとを「わかりたい」という欲求はわからないでもないが、何でもかんでも分かることから始めようとすると、「できる」をないがしろにしてしまう危険も大きい。
クラウゼヴィッツの場合、「プラトンのイデア」「中世の一神教の神」「仮説検証による法則」といった発想の流れを汲み、「本質重視」という考え方が根底にありました。対象の普遍的な「本質」をまずは見つけることが、そのものの何よりの理解になる、と考えるわけです。
一方で、『孫子』には、西欧的な意味での本質重視という考え方がありません。彼の思考を筆者なりに書けば、「対象を構成する基本要素を選び出し、その基本要素がどう関係するかを考える」となるのです。