見えないからこそ意味のあるもの
つながりの意義はなんとなく了解されているものの、いまいちつかみづらい。それはなんとも見えないことに起因する。かといって無下に扱われるかといえば、そんなこともない。われわれはつながりの欠如にある種の恐怖感を覚える。根無し草ともいわれるように、自身の存立の根底がそこに懸かっているからだ。
つまり、あって当たり前とみなされるがゆえに、見えないし、とくに見ようともしない。そこそこ満たされているからこそかえって見えないという逆説がそこには存在する。
とかく見える部分、数値化される部分ばかり評価しがちな現代にあって、つながりは過小評価される傾向にある。一方で情報社会の到来が、別の形でのオンラインネットワークというつながりをつまびらかにしてきた。
もちろん、リアルのつながりと、ネットのつながりをそのまま同質に評価してよいか議論の余地はあるが、つながりに焦点が当たってきたことは幸いかもしれない。ネットのつながりが評価できるなら、同様にリアルのつながりも評価の舞台に載せられるはずだから。
だとすれば「幸福」という感情も、同じ進化論的合理性の産物であるはずです。徹底して社会的な動物であるヒトは、家族や仲間と“強いつながり”を感じたり、共同体のなかで高い評価を得たときに幸福感を感じるような生得的プログラムを持っているのです。