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レビュー:プラットフォーム革命 アレックス・モザド、ニコラス・L・ジョンソン著

ものごとのベースとなるしくみが変わったにもかかわらず、私たちの判断基準は古い慣習に囚われたまま抜け出せない。もしくは、囚われていること自体にすら気づけない。こうしたことは決して珍しくない。

 ネットワークにつながることができる、いや自ずとつながってしまう現代にあって、影響のスケールするスピードや規模は、かつての限られた経路伝播性しか持たなかった時代とは比べるべくもない。

20世紀は直線的に敷衍して成長が思い描けたが、対する現代の双方向、多面的ネットワークにおいては、次なる展開は平易ではない。事態が重層的だったり、影響が指数関数的だったりする。いわば極端に現象するといっていいだろう。

旧来のモノやサービスを「提供」することに主眼を置く、いわば物質的所有中心のモデルは確かに直感的でわかりやすかった。良いものが勝敗を分け、売上がすべてを物語る。

一方で、プラットフォームは環境そのものが舞台となる。そこでは自己と他者が交錯し、生産か消費かと一意に割り切れない。結果も大事だが、むしろ終わりなき脈絡にあっては、持続する互恵的なプロセスが主題となる。そこでは単に目的を充足するのではなく、目的すら生成・拡張する。取引をクローズさせることが到達点にならない以上、時間軸もこれまでより幅を確保することが期待される。

手段が明確であればあとはベルトコンベア式に処理プロセスを最適化、効率化していき、アウトプットという形で完遂すればよいが、プラットフォームは手段というには大きすぎる。それはシームレスに生活に織り込まれた存在であって、何かを収穫するツールだと単純に割り切れない。

単なる手段にとどまらないということは、「技術」の捉え方自体に変更をせまるものだ。技術というと一般的に、過度に成果を賛美したり、逆に、ネガティブな影響からそれに懐疑的になったりと、白か黒かで極論されがちだ。しかし、手段を超えた技術というものは、技術がわれわれの生活を変え、同時に、われわれの生活が技術を意味づける。もはや便利なツールと割り切れない、両義的なものだ。

ビジネスモデルという表現も、どうしても20世紀の技術を引きずっていて、手段というイメージが抜けきれない。もちろんプラットフォームにも手段としての側面があることは事実だが、単にそれと決めつけると、実態を捉え損なう。

プラットフォームは技術であると同時に、社会であり、政治であり、経済であり、文化でもある。われわれがプラットフォームを使いこなすと同時に、プラットフォームがわれわれの行動を方向付ける。いつの間にかそうしたプラットフォームに囲まれているものの、私たちのプラットフォームへの理解はまだまだ不十分だ。

自由を無条件に賛美する風潮に対しても、プラットフォームは疑問を投げかける。適切な統制がなされなければ、プラットフォームはうまく機能しない。分散化と中央集権は排他なのではなく、バランスと組み合わせだ。

プラットフォームはそれほどに影響力をもっている。いわば現代の権力の最たる具象だ。それゆえにパワーを適切にコントロールすることが当然に組み込まれていなければならないが、いまだそれは過渡期にあるといえるだろう。

プラットフォームはその影響に鑑みれば、ビジネスである一方、単なるビジネスに収まりきらない面も併せ持つ。ゆえにその評価は、ポジティブ、ネガティブ両面からよりフラットになされなければ、実態を捉えきれない。

技術に関しても、20世紀的技術と21世紀的技術では、その在りようが変質してきている。単にできることだけでなく、すべきこと、期待されること、繋ぐこと、膨らませることなど、スケールする技術には課せられる役割も多面的であることが不可避だ。