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思索のヒント、ブックレビューなどを中心に

書籍の判断基準 どんな本がレビューに値するのか

良い本とはどんなものだろうか。

レビューを書いてみると、レビューできる本と、レビューできない本が出てくる。なぜできないのか。それはためになるとかならないとか、内容が濃いとか薄いとかというのとは違う。要するに具体的に書くことが見出せないものがあるということだ。

書けないというのは、自分のアンテナに引っかかるものがないということを意味する。それは中身に同意できるかどうかとはまったく別次元の話だ。

たとえ内容の論調に賛成できないとしても、そこから何かを発想できれば、それなりに評することができる。一方で、どんなに内容が優れていても、自分にとって既知の事実ばかりであれば、あえてそこに付け加えることは生じない。

そう考えると、良い本とは、自分にとって何らかの問題提起をしてくれる意味内容をもつものだといえるだろう。

だとすれば、人によって当然、アンテナの感度は千差万別なので、他人の評価はあまりあてにならないということにもなってしまう。ちょうど今置かれている状態に即していればいい本になるし、残念ながらそのタイミングがずれてしまえば悪い(評価に値しない)本になる。同じ本でも、受取り手の成熟度に応じて評価も変わってしまうということだ。

例えば、同じ本を再読するとしても、一読目でなかなかいい内容だと感心したとしても、それを大方咀嚼、吸収できた後で、二読目は普通の内容としか見なせないかもしれない。

評価が変わること自体は悪いことではなく、自分が成長することによって、過去の感心がふつうのものになるということにすぎない。

このように考えてくると、他人に書籍を薦めるのはとても難しいことがわかるだろう。私のいいは、相手のいいとは限らないのだ。その人と書籍とのフィット感がジャストマッチしたとき、それは良い本と呼ばれるわけで、世間一般が良書と評価する、ある種普遍的水準からの内容充実度評価とはまた次元の異なる話になる。

というわけで、私が考える良書とは、自分に考える余地をどれだけ与えてくれるかが判断基準になる。

その意味において、何らかの考えされられるポイントがあった本を徒然とレビューしているわけで、あくまでその時点時点において引っ掛かりのあったものだということになる。

結局のところ、読書とは自身で探求していくしか方法はないのだろう。レビューはあくまで参考意見であって、そういう印象を持った人もいたかもしれないが、自分にとってはどうだろうという目線で塗り替えていくしか方法はないように思う。