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モノ・コト幻想を打ち砕けるか

モノづくりが岐路に立たされたことで、コトづくりがもてはやされる。今や経験消費だ、感動追求だといわれるが、はたしてそれらの見立てに盲点はないのか。

 もちろん右肩上がりの経済成長が望めない時代にあって、一方的な供給デマンドが通用しないことは明らかではある。しかし、だからといってそれを需要側、顧客側に振り向ければことは解決すると考えるのは安直とは言えないだろうか。

要は原因を一つに限定してそれを潰せば問題は解決するという単純方程式自体が制度疲労ということなのだと思う。現実はもっと複雑に絡み合っているし、原因は一つだという根拠はない。

需要と供給は独立変数のようで、ある部分では相関している。であれば、どちらか一方をというアプローチでは対処しきれない。モノかコトかという議論も同様である。主眼を置く立ち位置は異なるにしても、両者は完全分離しているわけではない。

モノとコトは連動して現実は構成されているわけで、比重の置き方にバリエーションはあったとしても、どちらもそれ相応の配役の上に動いている。それは図と地ともいえるし、言葉と文脈ともいえるだろう。

独りよがりのものづくりが壁にぶち当たるのは当然としても、だからことをつくれば解決すると考えるのは早計だ。コトが重要なのはもちろんだが、コトには少なからずモノが関与し、一体化している。

だとすれば、モノかコトか、二者択一を追いかけるのではなく、モノに相応するコトとは、また、コトに相応するモノとは、という問いかけが正解ではなかろうか。これらは車の両輪のような位置づけのものであるから、いずれか一方だけでは機能しない。両者のバランスがとれ、相互にかみ合って初めて機能する。

そう考えると、モノづくり、ないし、コトづくりではなしに、モノコトづくりでないといけないし、もっと言えば、モノコトを総括する別の表現が必要なのかもしれない。